「これで帰りのSTを終わります」


高校3年生ながらしっかり‘さようなら’と言ってくれるところが可愛いなと思いながら、一日の終わりを迎えた。 後は職員室に戻って雑務を少しして帰ろう。そんなことを考えていると、立海大ではなく外部受験を考えている生徒が相談に来た。


「先生、ここの大学のことなんだけど…」
「あぁここはね…」


受験生を担任するのはとても大変だけど、彼らが立派に巣立っていくのをみるのが楽しみではある。 相談はいつも自分なりに真剣に答えているつもりだ。それが生徒に評判がいいらしく、他のクラスの生徒もたまに相談に来る。 時間が削られるのは少し惜しいが、頼られるのは嬉しい。今も資料を見せながら説明をしていると、まだ教室に残っている生徒が少し騒がしくなったのを感じた。


「あっ!赤也先生だ!」
「よっ!お前らさっさと帰れよな〜」
「え〜だって今行くと駅混んでるんだもん」
「はいはい。暗くならないうちに帰れよ?」


私は教室の入り口に背を向けているから目では見えていないが、赤也が来たことはすぐに分かった。彼はこの立海で体育の教師をしている。 私に用事だとは思うけど、今は相談を優先しようと背を向けたまま話し続けた。赤也は廊下に出て行ったらしい。生徒達はまだ雑談をしていた。


「赤也先生って先生と仲良くない?」
「中学高校と同じ部活だったらしいよ」
「そうなんだ!ひょっとして既に付き合ってるとか?」


女子高生が好きそうな話だと聞き流す。実際にはそうではなかったが、否定してもいい話題になるだけだ。また教室がざわつく。


「ねぇ!赤也先生と話してる人、すごいかっこよくない!?」
「ホントだ!でもここの先生じゃないよね…?」
「オイ、俺あの人知ってるぞ…」
「えっ?!有名人なの?!」
「プロテニスプレイヤーの幸村精市だよ!」


それが耳に入った瞬間、私は勢いよく立ち上がり、座っていた椅子を倒してしまった。でもそんなこと気にかけない。 教室中が注目しているみたいだけど気にしない。私が廊下へ向かおうとすると、あちらも気がついたのか、教室に入ってくる。


「何でいるのよ、精市…?」
「、怖いよ?」
「説明してよ!今日は雑誌のインタビューじゃなかったの?」
「午前中はそうだったよ。真田にここまで送ってもらった」
「そういうことじゃなくてさ、」
「まぁまぁ、先輩!」


赤也が割って入ってくる。それで少し冷静になれた。精市が目の前にいる。ここは私の職場の立海大附属高校。彼が本来居る場所じゃない。絶対何かある。


「何企んでるのよ」
「何にも?俺の潔白を説明してよ、赤也」
「俺が幸村先輩にテニス部のコーチをお願いしたんスよ」
「はぁ?そんなこと一言も言ってなかったじゃない!」
「幸村先輩…言ってなかったんスか…」
「だってそっちの方が面白いじゃないか」


呆れた。こういう男だとはこの何年もの付き合いで知ってたけどいきなりだとさすがに驚く。いつも振り回されるのは私。


「校長に挨拶してきたんだ」
「そうですか…」
「そういえば!先輩たち婚約してたんですね!」
「……精市、あんたもしかして…」
「校長にも報告しておいたから」
「…それはどうも、手間が省けました」
「先輩も水臭いなぁ。早く教えてくれればよかったのに」
「早くって言っても…ねぇ…」
「俺たち婚約したの昨日なんだ」
「はぁ!?昨日!?」


赤也が心底驚いているのを他所に、教室で私達の会話を興味津々に聞いていた生徒たちからは一斉に拍手がおこり、おめでとー、だとかの言葉が聞こえた。 物凄く恥ずかしくなった。精市の顔を窺ってみると、微笑が張り付いていた。あぁ満足感に浸っている。 私が恥ずかしがっている姿と、独占欲が混ざって彼の悦びになってるのは今までの経験で分かった。 私は大きく溜め息をついて、相談の途中だったことを思い出し、急いで戻る。精市は生徒たちに馴れ初めだとかそんなことを聞かれている。 もうどうにでもなれ。


「中断しちゃってごめんね」
「大丈夫だよ〜先生大変だね」
「本当に大変だよ」
「でも幸せなんでしょ?」


何を言わせるんだ、最近の高校生は。でも自分の気持ちに嘘はつきたくないからはっきりと‘幸せ’と答えた。


「へぇ、俺の前ではめったに言わないのにね」
「…精市、用事すんだんでしょ?」
「今から部活に行くんだけど」
「今日からなの?!来週は試合でしょ?大丈夫なの?」
「3日間だけさ。別にその試合はそんなに重要じゃないから大丈夫」
「でも久しぶりに越前君と出来るから楽しみだって…」
「坊やとは決勝で当たるようになってるんだ。それまでは相手にならない雑兵だから大丈夫」
「うわぁ、相変わらず言い方キツいっスね…」


赤也に酷く共感した。私はどっと疲れが押し寄せてきて、精市を睨んだ。


「分かったよ。俺は部活に行く。帰りは乗せてってね」
「…了解。終わったら連絡してちょうだい」
「幸村先輩!今日部活終わったら勝負しましょう!」
「いいよ。久しぶりに赤也とやりたい」
「俺が勝ったら先輩の手料理食わせてください!」
「じゃあ俺が勝ったら赤也の奢りで」
「いいわよ、料理作るから!」


よっしゃ、と赤也が呟き、精市を連れて出て行った。嵐が去ったと一息ついたものの、生徒からの質問の嵐に戸惑う。 これも想定して楽しんでいるのだろう、彼は。


「プロポーズの言葉、何だったの?」
「………目標になってくれ……かな?」
「えっなにその曖昧な言葉」


精市の言葉を思い出す。


「ねぇ、。俺、目標がほしいんだ」
「越前君を倒すことじゃないの?」
「それは五分五分の確立で達成できちゃうじゃないか」
「じゃあどんな?」
「もし君と僕が結婚したら、家庭を養うために働かなくちゃいけない。
 もし子供もできたらその子のためにテニスをして稼がなきゃいけない」
「それが目標になるってこと?」
「やっぱり頭いいね、は」
「つまり、今、私にプロポーズしてるって事?」
「大正解!」


そう言って指輪を出してきた精市のあの笑顔は何かを企んでいるとか、そういう顔ではなかった気がした。 私はそんな彼を見たのは久しぶりだったからとても嬉しかった。


それを思い出していると、生徒たちが急かしてくる。私は笑って誤魔化した。 そして、相談が終わったら質問が飛んでくる前にさっさと職員室へ逃げ込んだ。


「もしもし、?今から赤也とゲームをするから来なよ」
「分かった」


2人の試合を見るのは2、3年振りぐらいだから純粋に見てみたかった。少し急いでコートに行くと、ギャラリーがいっぱいで見づらいことになっていた。 私がうろうろしていると、赤也がコートのベンチに案内してくれた。何だか落ち着かない場所だ。


「今日は勝てる気がしますよ!」
「その自信、どこから湧いて出るのかなぁ」


綺麗なフォームで打たれるボールは、トップスピンがかかってるわけでもなく、とりわけ速いわけでもないが、赤也は返すのに苦労していた。 2人ともとても楽しそうにテニスをしていた。中学最後の全国大会が終わるまで、精市は勝つことしか頭になかった。 勝つことが喜びで、テニスをする上での楽しみだと思っていたに違いない。でも高校になってからは変わった。 いつも笑顔でテニスをするようになっていたし、テニスが出来る幸せを噛みしめているようだ。


不意に懐かしい匂いが薫った。精市の試合はプロになってからでも出来るだけ見に行っていたから、見慣れているはずなのに。 テニスをする彼の背中が、ひどく昔の彼と同化する。それは相手をしているのが赤也だからなのか。この場所が思い出深いコートだからだろうか。


「どうしたの、ぼーっとして」
「…何でもない、よ」


そう言って私は彼に飲み物を渡す。あぁこれも懐かしい。


「絶対に勝つから見ててよ、」


昔も同じ台詞を言っていた気がする。確か…中学の時の全国大会決勝、最後の試合。越前君との試合の前で言っていた。 思い出した私は泣き出した。いい大人が、人前で泣くのはどうかと自分でも思ったけど、止められない。 溢れて流れ出す涙は、忙しかった毎日を流してくれているかのようで、何故か心地よかった。 私を見て精市は驚いた様子だったけど、私の頭にポンポンと手を置いてコートへ向かった。 また背中が同化する。昔と一つ違っていたのは、精市が対戦相手、つまり赤也に勝ったということだ。









「久しぶりだね、越前」
「…お久しぶりっス、幸村さん」


試合前の握手を交わす。楽しみにしていた試合でもあり、心地よい緊張感と、少しの期待がある。


「そういえば、婚約おめでとうございます」
「…ありがとう。乾あたりに教えてもらったんだろ?」
「そんなところっス」


位置につく。サーブを打つ。ラリーをする。勝ちにこだわり続け、その結果負けた昔の自分が懐かしいくらい、今はテニスを楽しんでいる。 そう思えるくらいに余裕がある。









今日は珍しく精市がベンチの近くの席に座ってくれと言ってきた。普段はそんなこと言わないから少し驚いた。 精市が1ゲーム取られて戻ってくる。ベンチに最も近いこの席は、簡単に話しかけることが出来る。 でも、何て言えばいいかわからない。ドンマイ、だとか、頑張れとかの軽い言葉しか今は出てこない。 私が困っていると、フェンス越しに精市が話しかけてきた。


「絶対に勝つから見ててよ、」


そう言った彼の、コートに戻っていく後姿を見て、私はまた重ねる。 幾年も乗り越えて、幾年も壊した経験が、今の彼を包んでいる。 彼の笑顔と、さっきの言葉を思い出して、私はまた泣くのだ。










かさねる