「歳さん!」


英 守遙がを尋ねてから一月程経ったある日の夕方。歳三は会津本陣のある黒谷金戒光明寺、通称黒谷からの帰りで、旅籠などが並ぶ大通りを通っていた。 行き交う人々を上手く避けながら歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、歳三の下へと走ってくる一人の青年。よく知った懐かしい顔だった。


「お前…八郎か?どうして京へ?」
「歳さんに会いに来たのさ」


この青年は伊庭八郎。江戸四大道場の一つの練武館という道場の息子だ。彼は剣の才能があり、‘伊庭の子天狗’などという異名もあった。 歳三とは昔、遊び仲間であった。武士の子と薬売り。身分が大きく違っても伊庭は歳三を兄のように慕っていた。そいういう差別の無い関係が歳三には心地よかった。 二人が会うのは、歳三が浪士組として江戸を出る時以来なので、約一年振りの再会だった。


「噂は江戸にも届いてるよ。副長だって?」
「そんなに偉いもんじゃねぇよ」
「偉そうに歩いてたよ、歳さん。そいえいば、新選組にって子が働いてるって本当か?」
「を知ってるのか?」
「本当だったのか。守遙がこの前、尋ねて来たろ」
「確かに来たが。英くんとも知り合いなのか?…噂をすればだな…!」


歳三は店で買い物をするを見つけ声をかけた。どうやら夕餉の食材を買いに来たらしい。


「土方さん。ご苦労様です。そちらの方は…伊庭さん?」
「覚えててくれて嬉しいよ、ちゃん」
「どうして京へ?もしかして守遙に聞いて来たんですか?」
「その通りだよ。歳さんが立派になってるって聞いたら会いたくなってね。もちろんちゃんにも」
「お前ら何で知り合いなんだ?」
「道場が近いので。試合も何度かしたことがあります」


懐かしそうに話すの顔は、今まで見たことのないものだった。は現れる思い出一つ一つに柔らかく微笑んでいるようであった。


「今日はこいつと飲んでくる。近藤さんに伝えといてくれ。飯はいらねぇ」
「承知いたしました。では伊庭さん、また」


一礼して後にするを見送ってから、歳三らは彼女とは反対の道を歩いていった。手近な店に入り、歳三と伊庭は談笑した。 酒があまり好きではない歳三だが、普段嫌々飲む酒が今日は不思議と喉を通った。


「お前とが知り合いだとは思わなかった」
「歳さん、あの子の剣はすごいだろ。立ち会ったかい?」
「立ち合ったことは無いが、見たことはある。柔らかい剣だ」
「立ち合えば、あの子の本当のすごさがわかるさ」


伊庭が酒を飲み干す。二人はあれからだいぶ飲んでいた。明日のことも考えると、そろそろ時間だと歳三は思った。 しかし、伊庭はまた酒を注ぎ始めた。帰る気はないようだ。


「歳さん、また遊びに行こうよ。京の女は美しいだろうね」
「一人で行け。俺は忙しい」
「連れないなぁ。京の女は合わなかったかい?」
「…最近は全く通っていない。忙しいんだ」
「いや、昔の歳さんは忙しくても郭には行っていたよ。…ひょっとしてちゃんに惚れてないかい?」


伊庭の悟っているような目に歳三はたじろぎ、黙ってしまった。


「郭に行かないのは、惚れた女を考えて遊女を抱けないからだ」
「…」
「あんた今、恋ってもんを初めて知った坊みたいな顔してるよ。自覚していなかったのかい」


歳三はもちろん恋というものは経験していると思い込んでいた。だがそれは思い込みであり、体の、心の芯からの恋ではなかったのだろう。 こんな感情は感じたことが無かった。


「あの歳さんがねぇ。こんな野暮だとは」
「うるせぇ」
「後は自分で何とかするんだろ?歳さんらしく」


伊庭は終始笑っていて、歳三はいい気持ちはしなかった。だが不思議と心は落ち着くものだった。店を出る。冬の夜風は、酒で熱のある体に丁度よかった。


「恋ってもんは楽しいものなんだよ。分かったろ、歳さん」
「あぁ」
「明日、屯所へ行ってもいいかい?近藤さんに挨拶と、久しぶりに立ち会ってくれないか」
「いいだろう」









翌朝。朝餉の片付けも終わり、は門の掃き掃除をしていた。そこに伊庭が現れる。


「おはよう、ちゃん。歳さんいるかな?」
「おはようございます。伝えて参ります。客間でお待ちください」


伊庭を客間まで案内し、は歳三の自室へと向かった。彼は刀を手入れをしていた。


「あいつが来たのか。悪いが剣の相手をしてやってくれないか。手入れが終わったらすぐ行く」
「分かりました」









「始め!」


と伊庭が立ち合っている。二人とも流派は違うが、何処となく雰囲気が似ていた。


「二人の剣、柔らかいですね」


沖田が小さく言った。 と伊庭は全く動かない。間合いを計っているのか、時を待っているのか。 始めの合図があってからの静寂は、神秘的なものだった。 周りは食い入る様に二人を見つめ、この静寂に身を委ねているようだった。 刹那に伊庭が鋭く前へ出た。はまるで舞う様にそれを避け、降ってくる一撃も、撫ぜる様に滑らせ威力を弱めた。 再び間をとる。そしてまた伊庭が突っ込み、一撃を揮う。今度のものは先ほどのものとは違い、全身を込め打たれた。 男と女の力の差は歴然で、はその勢いに負け、よろける。そこに面を打たれ、試合は終わった。


「また強くなりましたか、伊庭さん」
「ちゃんこそ。あの舞うような剣、いつ見ても美しいよ」


試合を終えた二人の周りには、見学していた隊士達が集まり、騒ぎ出した。ふと伊庭は、柱にもたれる歳三を見つけ、走り寄った。


「一手頼むよ、歳さん」


伊庭と歳三が出てくる。隊士達は自然と静まり、また中央へと視線が集まっていた。 二人が構えると、先ほどとは違った雰囲気が周り一体を包み込んだ。


「始め!」


合図の後、伊庭はの時とは違い、すぐに踏み込んできた。歳三もそれに答えるように踏み出す。 二人の剣が交わると、重々しい音が響いた。伊庭の速さは、先ほどとはかなり違う。


「伊庭さんは、相手によって戦い方を変えられるんですね」
「器用な人だなぁ」
「それに比べて鬼副長さんは不器用ですからね」


沖田と藤堂が雰囲気を壊さぬよう、少し小声で話していた。だが、この二人の話が終わると、いつの間にか試合の決着はついていた。 結果的に歳三が力を押して勝ったという感じであった。歳三より少し体格が小さな伊庭は、力に押し負けたのだ。


「相変わらず力が強いなぁ、歳さんは」
「お前は型に嵌りすぎだ」
「歳さんの型は色んな流派が混ざってるからね」
「我流と言え」


少し短い時であったが、二人は満足したように笑いあった。


「いい機会だ。ちゃんと立ち合ってみたら?」
「…今は止めておく」


伊庭は少し残念そうな顔をして、防具を脱いだ。









「今度は歳さんが江戸に戻ってきなよ」
「時が来たらいずれ行く」
「ちゃんも、一度戻ってこれるといいね」
「そうですね。父に合った時は様子をお伝えください」
「分かったよ。それじゃあ、また」


歳三とは門の前で、伊庭を見送った。ふとを見ると、伊庭の後姿を曲がり角で見えなくなるまでずっと見つめていた。


(何て健気な姿だ。俺は本当にこいつに惚れたのか)


そう思いながら、の横顔を見ていると、彼女は気がついたのか歳三の方へ顔を向けた。


「どうされました?」
「人に気付かされたことはあるか?」
「この前、守遙に言われ、気付いたことがあります」
「…それは言われた通りだったのか?」
「…はい。土方さんも伊庭さんに何か言われたのですか?」


土方はそれまで見ていたの瞳から視線を外し、遠い空の岸を見て言った。


「あぁ。そうかもしれないと思ったよ」






恋の星霜