「祇園会が近いな」
「…二人で行けますか」
「何もなければ、な」
五月下旬頃から山崎や島田といった監察方が本格的に動き始めた。
は監察方の者達が動いているところを直接見たわけではないが、
歳三の部屋に頻繁に出入りを繰り返す山崎などを見ていたので、何となくには気付いていた。
何かが始まるのではないか。胸騒ぎは続く。
そして今日、六月に入り梅雨の季節が来た。ここ二日は毎日雨が降り、あまり過ごしやすいとは言えない天候だった。
はまた夢を見て起きた。しかし、いつも夢を見た後は内容を覚えているはずなのに、今見ていたはずの夢は全く思い出せなかった。
は少し恐ろしく思いながらも、何事もないようにと祈ることしか出来ないのだ。
その日の夜、土方の下へ一つの知らせが入った。巡察へ出かけていた隊が、鴨川の近くで怪しげな二人組みを捕縛した。
その二人を拷問をし問い詰めたところ、長州の者が約四十名、京に潜入していたことが判明した。
事の重大さを理解した歳三は近藤と深く話し合った。
は歳三と近藤が何か決めているのは知っていたが、このような事件が起きていることは知らない。それでも、何かが起こることは予想が出来たのだ。
二人は話し合った結果、今まで以上に巡察を増やし、その潜入した長州の人間を一人でも多く捕縛することであった。
次の日、隊士達にこの事が伝えられた。そして彼らは緊張感を持ち、巡察や探索を慎重にしていった。
誰もがこれから起こるであろう、まだ見えぬ恐怖に怯えるようでもあった。
は誰かに教えてもらったわけでもないのでこの事態をしっかりとは知らない。しかし感じ取る隊士達の空気は常に張り詰めていて、何となく分かるのだ。
○
「今日も雨ですね」
「この梅雨が明ければ少しは調子も良くなると思うがね」
六月三日になった。梅雨に入ったことから、山南はまた体調を崩していた。刀傷は癒えていたが、時々天候などの関係で体調を崩すことが多かった。
今は一人布団の中でに看病してもらっているという状態が続いていた。は毎日膳を運び、話し相手をした。
山南に様々なことを教わるので、は有意義な時間を過ごしていた。今日は祇園祭について聞いていたようだ。
「昼餉はお粥でいいですか?卵でも入れましょう」
「それはうまそうだ。頼むよ」
は材料を買うため、雨の中屯所を出た。傘の中に体が治まるように小さくなりながら歩いた。
必要なものを全て買い終わり、帰路に就いていた。その途中、暗い路地の奥で向かい合って話す武士の格好をした二人を見つけ、は少し怪しんだ。
意識を二人に向けながら通り過ぎようとした時、会話が聞こえた。
「…しかし桂先生は…」
「おいっ。先生の名を口に出すな!」
小声で話していたようだが、雨の音にも消されずに少し遠くを歩くの耳に届いた。は顔色を変える。桂、という言葉。
この桂と言う人物は長州の人間で、今新選組が探している者達の中にも入っていることはも知っている。
この二人は何か握っている。そう思ったは、そのまま何も聞かなかったというように通り過ぎ、路地に折れた。
そしてあの二人が出てくるのを待つ。出てきたらどうするだとか、そういうことは何も考えてはいなくて、そのとき決めようとの頭は思っていた。
少し経つと二人が路地から出てきた。は彼らとの距離をかなり開け、ついて行った。
しばらく歩いて行くと、彼らは周囲を気にしながら、一件の家屋へ入る。枡屋と言う店らしい。
はそれを確認した後に急いで屯所に戻った。傘から体が出て濡れても気にもせず、早足で進んだ。
○
「はぁ、はぁっ歳三さんっ」
「っ?何かあったのか」
はやっとの思いで屯所に着き、濡れた衣服も気にせず廊下を駆けた。真っ先に歳三に知らせなければと何故か思った。
歳三の部屋を挨拶もなしに突然開けたので、歳三はかなり驚いた顔をしていたが、の切迫した表情や濡れているところを見ると、ただ事ではないことは嫌でも感じ取った。
「っ、枡、屋に、」
「落ち着け。深く息を吸うんだ」
混乱しているのか息が上がり上手く話せないに、歳三は寄り添い肩を抱いた。が落ち着いてきて、話し出した。
「怪しげな二人の会話の中に‘桂’という言葉が出てきました。気になり後をつけていくと、
四条小橋の枡屋という店に入っていきました」
「四条小橋…あまり監察方を向かわせていない場所だ。今すぐ調べさせる」
よくこんな危険な尾行をしたものだ、と歳三は思いながらも口には出さずに労う。結果、に何もなかったのだ。今はそのことを喜ぶべきであると思った。
「よくやった。後は任せろ。お前は着替えて休め」
「お役に立てたでしょうか…?」
「かなりな。だがもう危険なことはやめてくれ」
「すみませんでした…」
は少し俯き反省をしているようであった。それを見て歳三は自分の衣服が濡れるのを構わずをきつく抱きしめた。
は雨に打たれ失われたぬくもりが、歳三によって甦って来るようで、穏やかな気持ちになった。
によって届けられた情報は、すぐに近藤や山崎などに渡り、しばらく枡屋を見張ることになった。
○
「副長。枡屋は餌ですね。大きな魚が次々食いついてくる」
四日の宵。山崎は見張っている枡屋についての情報をこのように伝えた。歳三はいい例えだと思いながら笑った。
「明日、武田に枡屋へ行かせよう。中を調べ、何かあったなら主人を捕縛だ」
「また拷問ですか。真の鬼になってしまいますよ」
「組のためだ」
「京を守る為ではなくてですか?」
山崎のこのような分かっていっているような口調は、歳三は嫌いではなかった。
○
「御用改めである!主人はおるか」
「私がこの店の主、喜右衛門でございます」
「中を改める。通してもらおう」
翌五日早朝、五番隊組長の武田観柳斎を枡屋に向かわせ調べさせた。
枡屋は何かと言いがかりをつけて中へ上がらせようとしなかったが、押し入り調べていった。蔵に何百もの武器が、そして密書と思われる書簡が見つかった。
武田は喜右衛門を捕縛し、屯所へ戻った。喜右衛門はすぐに前川邸にある蔵に入れられ、隊士による拷問が始まった。
は山南の部屋にいた。暇を見つけると、何故か山南の下へと行くようになっていた。山南に父親の面影を重ねていることは、自身も気付いていることだった。
外が騒がしくなり、気になったが様子を見ようと動き出した時に隊士が報告にきた。枡屋主人を捕縛し蔵に入れたことを聞くと、山南は表情を変える。
それがどこか悲しげに見えたは目を逸らす。
「また、拷問をするのか」
「…拷問…」
「君。蔵へは近づいてはいけないよ。あそこは地獄だ」
山南の顔が歪む。この人は優しすぎる。はそう思いながら、返事をせずに立ち上がる。山南が慌てたように言う。
「蔵に行く気かいっ?」
「私は地獄を見ておいた方がいいような気がします」
「本気かね」
「中は見ません、絶対に」
は強く言った。山南は呆れたように笑い、頷く。
「地獄はきっと、これからも訪れます。私は恐れずにいたい。そんな思いが心の淵にあるのでしょう」
始まりの雨