「稔麿が死んだだと…?」
池田屋事件が起こったその日、長州にいた久坂玄瑞は遅れて多くの戦友の死を知らされた。
吉田稔麿は池田屋で新選組から傷を負いながらも脱出し、長州藩邸に駆け込んだが、匿ってもらうことは許されなかった。
その屈辱と悔しさから自ら腹を切り、死んでいった。
「結びても 又結ても 黒髪の 乱れ染めにし 世をいかにせん」
それを聞かされた久坂は吉田が作った句を読みあげ、泣く。この体の奥から込み上げる憤怒は誰に対するものか。
新選組や会津に対してだけか。否、長州藩邸にいて、吉田を入れぬよう命じたであろう桂に対しても怒りを感じる。
もちろん、桂の考えは分かる。吉田を藩邸に入れることで、新選組と戦をする時期ではないと桂を考えたのだろう。
しかし、友を見殺しにされたのは事実。久坂は嘆く。
「何故…何故、時勢は稔麿たちのような優秀な人材を次々と殺してゆくのか…!」
この行き場の無い悲しみと憎しみは、長州の今にも京へ出陣しようと奮起する者たちを止めに帰ったはずの久坂の気持ちをも変えたのだった。
○
「沖田さん、動いて大丈夫なのですか?」
「大丈夫ですよ。それより平助のことが気になりましてね」
池田屋で額に大きな傷を負った藤堂の部屋へが行くと、同じく池田屋で倒れた沖田が、藤堂の額を団扇で扇ぎながらいた。
医者から額の傷が膿みだしたら、死ぬ可能性が高いと言われたので、傷口を風に当て乾燥させようとしているのだろう。
しかし、傷口は包帯で包まれているので、風を送っても意味が無い。はそんな沖田の行動に胸を熱くさせた。
「このところ蒸し暑い日が続きますね」
「そうですね。平助の傷が早くよくなるといいんですが」
あの事件から半月ほど経っていた。池田屋で大きな実績を残した新選組の待遇は、大きく変わっていた。
元より対応のよかった会津はより一層重宝してくれ、幕府からも一目置かれるようになった。
町民は「壬生狼」から「新選組」へと変わりつつある。しかし、未だに長州贔屓の京の町には受け入れられてはいない。
「おや、二人ともいたのかい」
山南も藤堂の部屋に入ってきた。彼もこの蒸し暑い気候の所為で、体調を崩しがちであった。
「今日は気分がいいからね。平助のところに来てみたんだ」
「藤堂さんも喜びますよ」
それに答えるかのように、藤堂が痛みに苦しんだ声で唸った。は手ぬぐいで首筋の汗を拭いた。
「平助の様子はどうなんだ」
「今日は客が多いようだね」
歳三もやってきた。鬼の副長と言われど、心まで鬼ではない。と沖田は顔を合わせて笑った。
「まだ油断は禁物ですが、以前よりだいぶよくなっていますよ」
「そうか。あぁ、総司に土産だ。滋養がある、食え」
「またですか?もう十分よくなりましたよ」
「いいから食え」
そう言って歳三は包みを無理矢理に沖田に渡し、部屋を出て行った。
「いつもこうやって押し付けるんですよ?」
「あれで土方君も総司を気にしてるんだよ」
呆れる沖田を見て、と山南は笑った。は藤堂の傷口の包帯を丁寧に換え、昼餉の準備のため部屋を出た。
「土方さんはやっぱり手が早いですよね」
「全く気がつかなかったよ」
「私は結構前から気づいてましたよ?」
沖田はまた藤堂の傷口を扇ぎ、と歳三の話題を振った。
「女に慣れている土方君だから心配というわけではないんだがね、何だか心配なんだよ」
「私もです…何か彼らにとって大きなことが起きそうで」
○
慶応元年七月十九日。
六月下旬ごろから、池田屋で多くの藩士を殺された長州の者達は怒りを抑えきれず挙兵し、嵯峨、山崎、伏見などに滞陣し、京を囲んでいた。
その軍がとうとう動き出した。長州らの軍は、御所を目指して進軍し始めたのだ。
「今日、長州は賊軍となる。だが我々は正しい!」
奮い立っている兵を前に、久坂は声を張り上げる。無情にも志半ばで斬り捨てられた仲間にも届けるかのように大声で。
「この戦で死すとも、まだ我々の志を受け継ぐものは長州には大勢いるはずだ。力を尽くせ!」
怒りとは時に固い思いをも揺るがす力があるのだ。久坂は長州にいる唯一の希望の光を持つ高杉へ期待の念を馳せた。
○
新選組は九条河原に会津藩の傘下として布陣していた。池田屋で傷を負った藤堂は完治していないものの、本人の意志でここにいる。昏倒した沖田も同じく共にいた。
まだ夜が明けぬ薄闇の中、砲声が聞こえた。皆一斉にそちらを見る。
(始まったか…)
うっすら赤い空に、黒煙もあがっていた。興奮する隊士を背後に、歳三は密かに屯所に残るの心配をしていた。
「近藤さん。これ以上待てねぇ。会津の命が無くとも、我々は出陣するべきだ」
「…そうするとしよう。出陣!」
浅葱色が駆けた。しかし、九条河原を離れ戦場に着いた時、もうそれは終わっていた。彦根藩と大垣藩によって長州は瞬く間に退却したようであった。
また砲声が聞こえた。何本も黒煙が上がり、赤く燃える京の町が見える。
「近藤さん、指示を」
「…今から御所へ向かう!」
浅葱色がまた駆けた。
○
「報告します!火の手は京の町を次々と襲っています!」
「そうか。引き続き頼む」
新選組の屯所では、留守を任された山南が情報を集めていた。
京の町は攻めてきた長州による放火や、戦により炎に包まれていた。
このままでは京の町が全焼というのも免れない。
「山南さん。私も京の町の人を救うお手伝いがしたいです」
「それは危険だよ君。ここに残った隊士たちが町民の避難を手伝うから心配をしないで欲しい」
「しかし、動ける人では一人でも多い方がいいはず」
の言うとおりであった。新選組に残された隊士は、怪我人や病人などが主で、動けるものは少ない。
「…分かったよ。しかし、危険なことは絶対にしてはいけないよ」
「ありがとうございます」
の真っ直ぐな目を見て山南が折れた。は額を畳につけ、深く礼を言い、山南から預かった刀を腰に下げ、屯所を走り出た。
火災が一番激しい方へと進んだ。逃げ惑う町人は自分のことしか考えていない。誰にぶつかり、誰が倒れようとも構わず走る。
は驚愕した。これが戦場なのか。誰も助け合おうとはしない。これが人なのだろうか。
親とはぐれたのか、往来の真ん中で少女が泣いていた。
「どうしたの?母さんと離れたの?」
少女は泣いてばかりで何も話そうとはしない。は少女の汚れた小さな手を握り、歩き出した。
しばらく歩いていくと、少女は泣き止み、繋いだ手をしっかりに握り締めていた。
は少女に笑いかけながら、目線を合わせようとしゃがんだ瞬間、かなり近くで銃声が響いた。
少女は驚いたのか、肩を震わせ、細い路地へ走っていってしまった。
「待ちなさい!そっちは危ないから!」
が叫んでも、少女は走り続けた。は少女を追いかけ、戦渦に自ら足を踏み入れていった。
「あれは確か……」
戦火の都