「最早、策は尽きたのか…」
戦況は、一旦は長州が押していたが、薩摩の介入により勢いが弱まっていた。多くの兵が死に、士気も無くなりつつある。
「我々はただ、誰よりも天子様を思っているだけなのだ…」
久坂は考えた。御所に入る方法を。真正面からではなく、会津などとは戦わずとも入ることが出来るような場所を探した。
「確か…鷹司邸の裏から御所へ入ることが出来たはず」
久坂は小隊を率いて鷹司邸へ向かった。走る。これが最後の望みだと、久坂は思っていた。
この燃える京の町の惨劇は決して長州だけが引き起こしたわけではないと強く念じる。
鷹司邸までの道のりで久しくも、一塵の恋と思い忘れようとした、愛おしい人物を見かけた。
「あれは……」
○
「待って!」
少女はの少し前を走る。は追いつきそうで追いつけないこの距離感をもどかしく思った。あと少しで捕まえられそうなところまで距離を縮めたが、少女が急に角を曲がった。
も慌てて曲がる。しかしそこに少女の姿はなかった。あったのは血を流し横たわる少女の姿。
「っ!何だガキか…!驚かせやがって!」
剣を振り、付いた血を拭う兵士の姿をは見た。その兵士の足元に少女は横たわっている。
の体の奥底から、今まで感じたことのないような怒りが、憎しみが湧き上げてきた。
そして涙も溢れてくる。この少女は何故殺されなければならなかったのか。は決して汚さないと決めた、山南の剣を腰から抜いた。
「何故!何故この罪のない少女を斬った!」
「ガキの次は女か。威勢のいいこったなぁ!」
「何故だと聞いている!」
嘲笑う兵士に剣を向ける。少し訛った口調に、あの髪型。は瞬時に長州の者だと分かった。
もうの怒りは抑えられない。精神を沈めるかのように、目を瞑った。
が目を開けると、それまで怒りで震えていた手はおさまり、静かに構える。だが、涙が流れるのはそのままに。
「おい!そんなことしている暇はない、行くぞ!」
「分かった。だが、男は売られた喧嘩は買うもんだ」
そう言って、少女を斬った兵士は剣を抜く。余裕を窺える目に、は嫌悪を感じた。
瞬間、兵士が斬りかかってくる。男と女。力の差は歴然である。だが、はうろたえない。
鋭い目つきで、真っ直ぐ相手を睨んだ。距離をとった。は再び目を瞑った。
もう何も聞こえてこない。遠くから聞こえる銃声も、炎に逃げ惑う人々の声も。
○
鷹司邸の門まで来た時、久坂は惨事を見た。少女が横たわり、は涙を流しながら剣を構えていた。
(美しい…)
目を閉じたに、久坂は見惚れる。それ故、が動き出すのを止められなかった。一歩遅れた段階で、久坂は声を上げた。
「やめろ!」
が目を開けた刹那、兵士は倒れていた。の舞う様に振るった剣は、怒りでしかない。
(斬った感触がない…まるで風を斬ったみたい)
久坂の声はには届いてはいなかった。正気に戻ったように、はその場に座り込む。涙はまだ溢れ続けている。
(私が、人を斬った…この大切な剣で人を斬った…)
はたった今、自ら人を殺めた剣を抱きしめながら泣き叫ぶ。他の長州の者達はただその叫び声を静かに耳にしているだけであった。
不意にが再び剣を抜いた。その切っ先を自らの腹へと向け、顔を天へ向けた。涙はまだ落ち続けている。
(この美しい女剣士は、何に悲しんでいるのだ)
久坂は嘆き叫ぶを見、剣を奪い、彼女の手から無くした。そしてその悲しみに暮れる体を抱きしめていた。
「覚えているか、」
「…久坂、玄瑞さん…?」
「そうだ。私はお前を愛おしいと思っていた。今もだ。だが俺は今日死ぬ」
「貴方は…長州のお方…だったのですね」
「お前は私の仲間を殺した。だが、お前は悪くはないのだ」
「私は人を斬ったのです」
「何故それほど自分を追い詰めるのだ」
は何も言い返せなかった。ただ力ないこの体に久坂の温もりを感じ取るだけ。
(本当に私には罪は無いのだろうか)
「…貴方は私を愛おしいと言ってくれました。でも…」
「私が長州だからか?」
「…はい…それとっ」
「もういい、分かった」
口付けをされた。の目は驚きで見開かれたが、不思議と嫌ではなかった。
(この人は本当に死ぬのだ…)
唇からそう伝って来た気がした。久坂が離れる。彼の腕を掴もうと伸ばされたの手は、途中で虚しく降ろされた。
「ここは戦場になる。早く立ち去れ」
そう久坂が言い放った時、会津藩の小隊が攻撃を仕掛けてきた。長州小隊は鷹司邸に逃げ込み、占拠した。
は久坂の元に居た。そちらの方が安全だと思った。鷹司邸の塀を利用して、長州は敵の攻撃を凌いでいた。
久坂は鷹司輔熙を捕まえ、あくまでも武力ではなく、言論での朝廷への直奏を申し出た。
「主らは御所に剣を向けたのだ。手遅れである」
「決して天子様に向けたわけではござらん!」
「それでも、天子様はお怒りなのだ」
「天子様が…」
これは長州の敗北を意味していた。彼らは知らぬうちに、最も崇拝する天子に牙を向けていたのだ。
久坂が悔しさに泣き崩れる。最早彼らには何も無くなった。
久坂は何か決めたように、の背後に近づき、脇差を首に当てた。
その瞬間、塀が突破され、会津小隊が入ってくる。
「お前を人質だと思わせる。叫べ」
「しかし、貴方は…!」
「俺は腹を切る。それ以外に道はない」
久坂の表情を見ると、とても穏やかであった。は頷き、助けを求める声を上げた。久坂の腕が緩んだすきに、は会津の方へと駆け出す。
「まだ生きている者達よ!そのまま走るのだ!走って我が志を受け継いでくれ!」
久坂は腹の底から声を出した。
「日本の行く末、見れぬこと、無念なり!」
そして空を仰ぎ、叫ぶ。突き刺さる剣は背中を抜け、体は倒れる。
(なんて美しい最期なのだろう…)
はまた涙を流す。彼の叫びが、いつまでも胸に響いていた。
○
歳三や近藤たち新選組隊士は、天王山に立て篭もっている長州勢の下へ向かっていた。
何百もある階段を駆け上がり、山頂についたとき、幔幕から現れる人影を見た。
地を這うような低く、だがよく通る声が響いた。
「我は真木和泉である」
彼は詩を吟じ始める。真木といえば、長州の中でも重要な人物である。新選組はざわめきつつも、大きく騒ぎ立てなかったのは、彼の醸し出す厳粛な空気の所為であろう。
真木が吟じ終わった瞬間、幔幕からいくつもの銃口が現れた。
「伏せろ!」
皆、地に伏せた。しかし少し遅れた永倉と井上の体に銃弾が掠り、血が吹いた。歳三は舌打ちをする。
こちらは剣でしか戦えぬ。これでは何もできない。しばらくして銃弾が止み、顔を上げると、幔幕は炎に包まれていた。
そして血が流れ出ている。集団自決をしたようであった。まだ完全に死ねていない者が、刀の痛みと焼かれる苦痛で呻き声を上げているのが聞こえた。
(見事な最期だ)
歳三は、武士ならばこういう死に方をしたいと思った。長州は新選組に、土方に、そしてにも大きな何かを残して敗北していった。
(…が、泣いている…)
一塵の恋