「先生。あのようなことを言われて大丈夫なのですか」
藤堂が辞してしばらくたった頃、伊東に懐く篠原泰之進は言った。
伊東はしばらく言葉を発しなかったが、それは何か考えている訳ではない事を篠原は知っている。
「君はをよく知っているはずだね」
「ええ。何度か手合わせしたことも」
「ならば分かるはずだ」
「…先生は何か期待してらっしゃる」
「その通りだ。だが、彼女が口にする言葉はもう分かっている」
篠原は、伊東のことを尊王攘夷を論ずる人間として尊敬しているが、決してそれだけではない。
この威厳ある空気を纏い、柔らかく滑るように発する言葉を感じるといつも、緊張が訪れる。
こういう者こそが上に立ち、今の日本を導く者だと思っていた。
「あなたは普段は用心深いが、時に成り行きにも見える」
「私は完璧ではないのだろう。そうでなくては生きてはいけぬ」
こういった時々見せる人間臭さにも惚れていた。
篠原は、落ちてゆく太陽に照らされた障子を一瞥し、自分の未来も彼の成り行きに導かれるのだと思った。
○
「お久しぶりで御座います」
「本当に久しいね、君」
翌日、は早速伊東の下を訪ねた。急がなくてもいいと藤堂には言われていたが、はすぐに会いたがった。
「一年振りぐらいでしょうか」
「そうだな…誰かがこの道場を離れ、田舎道場に入り浸った頃に君と出会い、
誰かが京へ出立した頃から会っていなかったね」
皮肉交じりに放った伊東の言葉に、藤堂は動揺し、は笑った。
そして、一通り談笑した後、藤堂が本題を切り出した。
「先生。新選組加入の件、考えていただけましたか」
「…君はどう思う。私は新選組に必要な人間かい?」
待っていたとばかりに、伊東は言葉を発した。藤堂も、その場に控えていた篠原も、の返答に興味を持った。
ほんの少しの沈黙のあと、はこの張り詰めた空気を一掃するかのように明るく答えた。
「新選組には剣術がお上手な方が大勢いらっしゃいます。
もちろん伊東先生もその一人に違いないです。
ですが、論じることができる方はあまりいません。
世の中の時勢を様々な意見を取り入れて論ずることが出来る方は少ないのです。
是非ともお力を貸していただきたいと思います。」
伊東はの言葉に少し驚いた。これほどしっかりした意見を言ってくるとは思わなかったからだ。成長した、と心の中で思った。
「…分かった。快く申し出を受け入れよう」
「ありがとうございます!」
と平助は深く頭を下げた。伊東はもう想い描いていた。自分の未来と、日本の行く末を。
○
「土方君。長州が京に攻めてきた時、君は夢を見たといっていたかい?」
近藤や永倉も江戸に出立した。それから何日か経ったある日、歳三と山南は意見を交換していた。
一段落した時、山南はふと気になったのだ。
「…そういえば聞いてないな。山南さんもか」
「あぁ。池田屋ほどの事件を見たのに、今回の戦のことは見ていないのはおかしくないか?」
「……確かにそうだな」
歳三は、が夢見を話さなかったのを気になっていなかったわけではない。
たとえ自分に話さなかったとしても、山南には話しているものだと思っていたのだ。
(何かが変わってきているのか、あいつの中で)
○
近藤一行が江戸へ到着した。近藤は疲れた表情をしていたが、久しぶりに試衛館や、故郷である多摩に帰れることが嬉しく思っているように見えた。
「局長。俺の師、伊東道場の伊東大蔵先生を誘致いたしました」
「伊東道場…江戸のか。耳にしたことがあるが…明日にでもお会いしよう」
元よりそのつもりであった。藤堂は、近藤たちにはせめて今日だけでも休んでもらおうと思っていた。
近藤はに体を向け、穏やかな顔で言った。
「君。トシが何て言ったかは知らないが、自分で考えて自分で決めなさい」
「……はい」
○
は今日も祖母の看病をしていた。祖母はが帰ってきてからは少し顔色が良くなってはいたが、まだ起き上がることはできない。
「お祖母様…私…」
「…かい。どうしたんだい」
祖母は寝ているとばかり思っていたので、は少し驚いた。
「お祖母様は知ってらっしゃいますね。私の夢見のことを」
「ええ。あなたの母親もそうでしたね」
「はい。…私は最近、予知夢ではなく過去の夢を見てしまうのです」
「どんな…?」
は自分の両手を胸の前で強く握って深く息をついた。
すると、祖母が布団の中から手を出し、弱々しい力での両手を握った。
「人が血を流す。京の町が燃える。私が…人を斬るところを何度も」
「そうかい。人を斬ってしまったんだね」
「はい。ですから私は汚い…醜い」
蹲る。辛い辛い思い出は、幻想でも、蜃気楼でもなかった。
「何か理由があっての結果ならば、私は何も言わないよ」
「ですが、私は尊い人の命を…」
「後悔するのは自由。だけれどその尊い自分の命を、人生をそうして後悔で潰すのですか」
顔を上げる。目を瞑ったままの祖母は、昔の、母親代わりであった厳しい祖母に見えた。
「…私は後悔しているよ。あなたにもっとしっかり剣術を学ぶなと叱ればよかったとね。
でも…。人を殺しても、剣術を学んで後悔はしていないのでしょう?」
は、はっと気がついた。こうして人を殺めたことを後悔しているにも関わらず、剣術を憎んではいないと。
実際に、あの悲しい戦の後も、毎日汗を流して稽古に参加した。剣術が嫌いにはなれなかったのだ。
「はい、私は後悔などしていません。剣術を学んだことも、人を殺めたことも、ここに戻ってきたことも」
開かれた明道