「守遥くんが見合いをしたそうだ」


洗ったばかりの皆の道着を干している時、父が縁側に座り、唐突に言った。 私は動かしていた手を止め、父に顔を向けた。 私には、彼がその情報を私に伝え、何を求めているのか分かりかねた。


「…そうですか」
「何でも、相手も武家の娘らしく断れなかったそうだ」
「彼もいい歳ですから」
「お前もだよ、」


何も言えなかった。昔は、縁談が来れば受け入れるつもりでいた。 そうすることできっと父にも道場にも良い影響があると思ったからだ。 だが今は違う気がした。私はやりたい事がある。はっきりとした目的ではなく、漠然とした生きる意味が。 そして、少なからず歳三さんの存在も影響しているだろう。 彼は、守遥は自らの意思を殺して、家のために縁談を飲んだのか。彼が羨ましくも、哀れにも見えた。


「、お前は良いのか」
「何が…ですか」
「彼が嫁をもらうかもしれぬと言うことだ」
「私は…別に…」
「しかし、お前たちは恋仲だったのだろう」
「…ただの子供の戯れです」


私は本当にそう思っていたのか。私にとって守遥はどのような存在で、どれくらい大切な人間なのかを、もう一度考え直す必要がある気がした。 しかし、今は祖母のことや、京に残るあの人のことで胸の内は一杯なのである。


「お前はもう十分大人だ。自分で決めなさい。私は何も言わぬ」


父はそう言って、道場の方へ向かっていった。 私はその後もしばらく何もせず、ただ、変わっていく周囲の速さに自分がついていけていないことに焦燥を感じていた。 はっと弾かれたように現実に戻った。祖母のところへ行かなくては。瞬間的に思った。









いつものように道場へ稽古へ行く途中であった。偶然に先日見合いをした相手に鉢合わせした。 この見合いを断りきれなかったのは、家の理由だけではない。のことが多少でも頭をよぎったのは本当のことだ。 しかし、彼女にはもう忘れられない人ができた。その事実を忘れるために、この見合いを受け入れたと言うのも本当のことだ。 見合い相手に会ってみても別に断る理由をつけるほど、嫌な相手ではなかった。ただ、満足という言葉は浮かんでは来なかった。


その見合い相手と立ち話をしていると、道場仲間が走って近寄ってきた。普段は落ち着いている印象があったから少し驚いた。


「先生の母上が、お亡くなりになられたそうだ…」
「真か…?!」
「あぁ。それでさんの様子がおかしいそうだ。先生にお前を呼んでくるよう申しつけられた」
「が…?!分かった、すぐ行く」


見合い相手が心配そうにこちらを見ていた。恐らく、誰かが亡くなったことよりも、僕の口から女の名前が出てきたことに心配しているのだ。 僕はそれを知っていてそのまま、何も言わず道場へと走った。









「失礼します」


静かに襖を引く。祖母は寝ているようだが、いつもよりどこか纏っている空気が違う気がした。 近づいて顔を覗くと、私は感じとった。彼女は自分の最後を悟っているのだと。


「…、あなたも…気づいているかも、しれませんが…」
「…分かっています、お祖母様!話さなくてよいのです…」


急に壮大な悲しみと共に、涙が溢れてきた。遂に最後なのだ。身近な人物の死が、そこに迫っているのだと言う実感が持てた。 私は、まだ少しの温もりが残る祖母の手を握った。


「…聞くのです。」
「はい…」


私は幾分か前から祖母の死を確信していたのかもしれない。 そろそろではないかと言う憶測は、無意識のうちにしていたのかもしれない。 今になってその自覚が出てきたようだ。 しかし、その憶測をして、悲しむだとか、出来るだけ傍にいようだとか、 そんな気遣いをしてはいなかったところを考えると私は、本当は祖母の死を確信できていなかったにすぎない。


「お前は、自分の意思を、大切にしなさい」
「何故…そのようなことを仰るのですか」


彼女は閉じていた目をゆっくりと開き、真っ直ぐ天井を向いていた顔をこちらへと動かした。 その動作が、いつもの彼女の動きではなく、彼女の死が間もなくなのだという現実に引き戻された感覚であった。


「お前の母親には…好きなことをさせてやれなかった、からね」
「母は決して、お祖母様を憎んではいないはずです!」
「…そうだと、しても私は…私自身が、憎いのです」


祖母はずっと後悔しながら生きてきたのか。何故、自らを苦しめるような生き方をしたのか。


「剣を続けたいのなら、そうしなさい。人を殺したいと思ったら、そうすればいい。
 ある人を愛したならば、精一杯愛すのです」
「はい、お祖母様…そのお言葉…必ず守ります」


祖母は最後に笑顔を残し、穏やかな永遠のまどろみに身を沈めていった。









「守遥くん!こちらだ」


道場に着くと、先生は待ちわびた様子で待っていた。 案内された部屋の中に、は一人で何時間も閉じ篭っているそうだ。


「君にしか頼めないと思ってな」


先生はにっと笑って俺の背中を軽く押し、去っていった。 僕は襖に手をかけ止まる。にとってこれほどまでに祖母の存在は大きかったのだろうか。 今まであまり気にかけてはこなかったものだと思い込んでいたため、どこか今の状況が飲み込めなかった。


「、僕だ、守遥だ。入るぞ」


返事はないが、構わず中へ入った。は、祖母の手を握り締めたまま、蹲っていた。


「来ないで!」


僕が一歩前へ出ると、は声を荒げた。音を立てないよう足を出したというのに、驚いた。


「、もうお祖母様は亡くなられたんだ」
「…私が一番実感している。もうお祖母様の手には温かい血が流れていないのが分かるのよ」
「お前は何故そのようにお祖母様に拘るんだ」
「…気づいたのよ。今の私が存在するのも、お祖母様のおかげなの」
「気づいたのならば、解放してあげよう。お前と言う呪縛から」
「呪縛…?」
「今のお前は、まるでお祖母様を呪縛しているように思える」


じゅばく、とは小さく呟いて起き上がった。ゆっくりと僕の方へ顔を向け、悲しそうな目で言った。


「…私はお祖母様を呪ってなどないわ」
「その目は、僕から見ると憎しみの目に見える」
「なら、悲しいのに笑えっていうの?」


一層悲しみが深くなったように、は僕を睨んだ。その目は、僕にとっては苦痛でしかなく、目を逸らしてしまいたかった。 でも、その目を逸らしたらの心が閉ざされてしまう気がして、僕は必死にその視線を受け止めていた。


「お祖母様を悲しませたままにさせるなよ、」


は睨でいた目を潤ませ、声を上げながら泣いた。僕は黙ってを抱きしめた。


(僕一人だけが幸せになってはいけない…)


の体温を感じながらそう思った。 にとって幸せというのがどういうものかは分からないが、彼女が心の底から笑えるときまで、所帯を持つことをやめようと思った。


(早くを土方さんに会わせなくては、僕ががどうかなりそうだ)






哀惜の底から