「くん、大丈夫かい?顔色が良くないようだけど」


山南さんの部屋に食事を持っていくと、こう言われた。 あの後、屯所に着いて食事の準備をしていても、私は心ここにあらずといった感じで、気持ちが揺れていた。 何度も紅葉と夕陽の赤と、人の血の赤が頭に浮かぶ。美しいものと悲しいものとが対で浮かび上がる。 土方さんのあの最後の言葉も残っていた。


「少し休めば大丈夫ですよ」
「…あの斬りあいがまだ残っているのかい」
「……はい」
「あれが日常なんだよ。だが、君には慣れてほしくはない」
「土方さんにも言われました。人斬りで快楽を得るのは俺達だけでいい、と」
「土方くんがそんな事をねぇ」


山南さんは少し微笑んでいた。


「その言葉が、頭から離れないのです。それと」
「それと?」
「夕陽と紅葉の赤が、今思い返してみると血の色に見えてしまうのです。
 あんな綺麗な風景が血に染まっているように」
「そういう考えは良くないね。見た時は綺麗だったならそれでいいじゃないか」
「あの風景の赤は、この世の中に流れた血の赤ではないか、と思ってしまいます」
「考えすぎだよ。今日はもう食事をして休みなさい。片付けは誰かに頼んでおくから」
「…すみません。ありがとうございました」


今日は、山南さんの言うように休まないと身体的にも、精神的にも苦しかった。 ただ、まだ土方さんに食事を持っていっていない。それだけは、どうしてもやり遂げたかった。









「失礼します。食事をお持ちしました」
「入れ」


襖を開ける前に、がさがさと音がした。何かをしまう音に、私はまた発句帳をだろうと笑ってしまう。


「顔色が良くないな。まださっきのを引きずっているのか」


鋭い察しに何も言えなかった。土方さんの顔を見れない。


「お前が剣を握るのに、それなりの覚悟があったが迷いもあった。その迷いは自分を殺してしまう。
 だから俺はお前と面と向かって話した。あの後は迷いがなくなったようだが、今のお前にはまた迷い
 が出来ている」


迷いがあるからこそ、私は今、土方さんの瞳をまっすぐ見ることが出来ないのだ。 口も開かず畳ばかりを見つめる私に土方さんは溜め息をついた。


「お前が剣に固執するのは何故だ。武士に拘るのもだ」
「…私が女子だからではないでしょうか」


確信もなく言った。これは本当に私が心の中で思っている事なのか自分でさえ、分からない。土方さんはそのままの表情で言う。


「お前は‘女子だから’とよく言うが、新選組の奴らはそんな事気にしていない」
「そうでしょうか…」
「あいつらは強ければ誰でもいいんだよ。女でも童でも」


道理の通っていない意見だったが、新選組の隊士達は私を女だからと言って差別はしたことがない。 彼らの性格からしても、強ければ誰でもいい、というのはその通りだと思われる。


「自身を持て、。お前は女だが俺たちの中では武士だ」


また何も言えなかった。その言葉が生まれてから待ち望んだ言葉だと気付くのに時間がかかった。


「でも私はっ…」


やっと出てきた言葉が途絶えた。土方さんが私を強く抱きしめているからだ。


「お前は不思議な女だ」


自分が置かれている状況がやっと分かった。私は固まり、何もできないで居る。けれど、不思議と言葉は生まれた。


「…それは…褒め言葉ですか?」
「どうだかな」


土方さんはまだ、力を弱めない。とても強い力だったが、苦しくはなかった。


「お前が過去にどんな扱いをされてきたかは知らない。
 だがここは、新選組はお前を軽蔑したりはしていないはずだ。もっと自分を出せ、」


土方さんの体温を感じる。心地よい温度で、心地よい程度で、ぬくもりに包まれていた。 また涙が流れていた。江戸にいた頃はこんなには泣くことはなかったのにと自分でも驚く。 私はただ抱きしめられるだけだったが、やっと土方さんの背中に腕を回した。まるでしがみつくように。 土方さんが私の頭を彼の肩に当たるように押さえた。溢れる涙で着物に染みがついてしまっただろう。 私が泣き止むまで土方さんはそのままで居てくれた。半刻も経っていないはずなのに、もう一刻以上経っている様な気がした。 私から力を抜き、離れる。土方さんは、それまでの力が嘘のように、するりと私を離してくれた。









その後、私は逃げるように足早に自室に戻ってきた。気持ちが荒れていて、あのまま土方さんの傍にいられなかった。 自室の襖を閉めると、足に力が入らなくなり、膝が折れて座り込んでしまった。まだ顔が火照っている。


「どうすればいいの…。守遙(すよう)」









しばらく、大きな事件が起こるようなことがなかった。毎日同じ時間に起き、食事を作り、稽古をし、寝る。 それを繰り返しているだけなのに、何か新鮮な気分が続いていた。 新選組での生活が充実しすぎていて、この先に訪れるあの日のことを忘れていたのだ。


二月ほどたった粉雪が降る十二月二十七日。隊士たちの落ち着きがなかった。戦に行く前のような様子だ。 幹部の人たちも張り詰めた空気を纏っていた。 特に土方さんは、いつも以上に人を引き付けない雰囲気で、自ら彼に話しかけたりする隊士はいなかった。


「出格子窓の部屋には近寄るな。お前は自室か台所にいろ」
「…理由を聞いてもいいですか」
「野口健司が今晩切腹する」


土方さんが何の感情もこもっていない顔で淡々と言う。鬼の副長と言うのはこういう顔の時に言うのだと改めて思い知らされる。 私は驚き、目を見開いた。そして目を据えてしっかりした眼差しで土方さんを見て言う。


「私もその切腹の場にいさせてください」
「駄目だ」
「もう血を見ても大丈夫です。先に見た夢の切腹なのか確認したいのです」
「知らない者の切腹ではない。目の前で人が死ぬ。それを見る覚悟はあるのか」
「人の死を見る覚悟は無いのかもしれません。でも自分の夢を最後まで見届ける覚悟はあります」


土方さんと浪士の斬り合いからまともに見れていなかった目をまっすぐ見る。 土方さんは一つ溜め息をつき、分かったと言った。


その晩、予定通り野口健司は切腹した。私は幹部達が座る一つ後ろに静かに座り、切腹の始終を見ていた。 全てあの夢と重なった。夢を見てからかなりの日にちが経っていたが、鮮明に覚えていた。 不思議と私の心には何の感情も浮かび上がってこなかった。ただ見ているだけ。ただ夢と重ねただけ。 土方さんは、私が何かしら具合を悪くするのではないかと思っていたのか、少し拍子抜けしているような表情だった。


「全てあの夢と同じでした」
「お前、何ともないのか」
「あの日で全て失った気がします。血を見る恐怖も、人の死を見る感情も」
「まるで鬼のようだな」
「土方さんと同じですね」






深閑の雪