「今は亡き時雨との愛」



八重桜の上に白く卑俗に圧し掛かるそれは、今ではなければそれはなんとまあ美しいものであるかと嘆息に値する程の価値があり、卑俗だなんて言葉、本来ならば臍で茶を沸かされるどころか眼科或いは精神科を勧められるであろう、実に似つかわしくない言葉である。きっと、多分、この状況でも確かに美しいのだろう。しかし私の瞳にはなんとまあ美しいものであるか、では無く、なんとまあ時宜を誤謬したものであるか、とそれはやはり何処か卑俗に映り眉目を顰める対象になるのだった。色も理念も欣快も何もかもをも殺すそれは、あまりに、異端だ。しかし、その異端、という言葉が脳髄を侵し始めると途端に私の思考は逆回転しだすのだから、類は友を呼ぶ、今時風に略して類友という慣用句は中々に愉快だと思う。反時計回りにぐるぐると回りだした思考が生み出したのは実に単純明快、この白を呼び寄せたのは私で、”類は友を呼ぶ”、つまりは私もまた、異端で、そして、卑俗な人間である、という事。
私は自分自身異端で卑俗な人間の代表といっても過言では無いと自負している。私は、どうやら人よりも独占欲が強いらしく、どうにも愛する人に近付く者を乾燥で捲れ上がった唇の皮程にも、赦せない。それは今の社会に則って男女平等に、だ。だから彼に気安く話し掛ける十字架の男も、命令する泣き黒子も、調理実習の度に洋菓子を渡そうと蟲の如く、それこそ彼という洋菓子に我こそはと群がりわらわらと蠢く女共も、果ては授業中に彼を指名する教師でさえも、みんなみんな一人と残らず殺してやりたい。こうした二人きりの宵闇にはナルヴィの娘でこそその息を殺し、霜の嘶きをも殺すようにしなければその首を取ってやりたい、とそれこそ桜を侵すこの白のように、色も理念も欣快も何もかもを殺したくなる程に、である。
けれども私は、本当は何時だって美しく、清らかに、特別で居たいのだ。彼にはそんな子が似合うと思うし、そして私がただそんな子で、居たいから。

私の鼓膜が緩やかに振動し、三つの骨が何処か窘迫した彼の声を神経へと産み落とす。それと同時に生まれた風が、八重桜と彼の太陽の糸を緩やかに撫でて、私では到底届かないそれにいとも容易く触れた事にまた、この心は幾許の憤りを感じた。そうする事によって私と彼の距離は正しく一億五千万の数字を羅列しているというのに、泥濘に嵌るこの身体は沈殿する一方だ。
泣きたくなった。全身が汚泥と醜怪に塗れ、もう桜の白と比べる事自体が、烏滸がましい。彼は何時だってこんなにも美しいというのに、私はこんなにも、汚れている。彼に一番相応しく無い、一等殺してやりたい人間とは外でもない、この、私だ。
「お前の好む、何も無い夜にはもう黒い服は着てくるな」
「………どうして?」
「………お前は、俺が好きか?」
思わず瞠目して、彼の蒼鳥の瞳を見遣る。お前は俺が好きか?それはまた、倫理明快且つ如何にも巫山戯た質問だなあ、と思う。彼のこの質問に対して私が貴方の周りの私自身を含めた人間やら動物やら何もかも全て総合的に考えて取り巻いているものを一つも残さず殺したい程に貴方の事を好き、というと語弊が生じる程に、貴方の事を愛していると言えば一体どうするのだろうか。その美しい、節節に胼胝の出来た指でそっと太陽の糸が掠める耳を塞ぎ、自分が思っているような美しい女では無かったと耳を塞ぎながらその目も緩慢に閉じて、一切の隔離、私が沈殿する泥濘とは相対した位置にある透明な海に浮上、見方によっては或いは同等に沈殿してゆくのだろうか。それとも、私だけが入水して、彼は、何処へ、美しく清らかで特別な子の元へと、歩いていくのだろうか。
「愛してる」
陳腐な言葉だと、思った。使い古されて独創性も喪失し最早模造品と為り得てしまっているその言葉に、果たして今、どれだけの意味や価値があるのだろうか。少なくとも、私の醜悪で歪な思考は心の奥底に唾棄された儘でそこには存在していないのだから、その言葉の大きさと悍しさに染色した裏側が伝達するほどの意味は無く勿論の事価値も全く無い、空っぽのものであるということは、悲しくも空しくも理解出来る。
「………そういう事だよ」
「そういう事って、どういう事?全然まったくこれっぽっちもわからないよ、若くん」
「俺もお前が好きで、愛してんだから、つまりそういう事なんだよ」
「俺はお前に消えて欲しくない、お前も俺に消えて欲しくないだろ」円かな膜を張る若くんはそう言いながら何時の間にか私の頭に降りかかっている、宵闇の中では花弁とも淡雪とも判別出来ないものをそっと振り落とすと静かに屈み、空気に乗せる事も無く私の耳に直接言葉を、吹き込んだ。それは愉悦を惜し気もなく含んだ、妖しく、それでいて無知で無垢な、美しい、今は亡き時雨を想わせるような声だった。
「やるからには上手くやれよ。俺なら、決してお前にばれないように出来る。上手く出来たら褒美でもやるよ、例えば、白いワンピースとか」
そう言った若くんは私の手を握り、当の昔に街灯も寝静まってしまっている暗澹とした道を歩き出した。何も無い夜が好きだと言った私の為に、美しい八重桜を観桜出来る場所へと誘う為のこの散歩、の延長線上に在るこの外出もそろそろ終幕を迎えたらしい。午前三時、あと数時間でナルヴィの息子が光の鬣を引き連れてやってくる。その前に私達は、帰らなければならない。
若くんの言葉が残響する。やるからには、上手くやれ。それはつまり、私の全てを彼が承知しているという事で、そしてそれはつまり私が常々厭わしく思っているものが在りそれらを彼の与り知らぬ所で色々と、とてもじゃあないけれどもこの口から伝える事の出来ないような卑劣であまりに稚拙な方法で悉く排除、というには少し大袈裟だけれども排除とそれなりに近い言葉で言うならば消去しているというそれも、また、承知しているという事で、そしてそしてそれはつまり先程の愛しているの言葉の示唆するものもまた、承知している、と、いう事で、ならば、彼は異端で卑俗なこの私を、確かに、愛している、という事なのだろうか?この私と、同じように。
「………若くん」
「なんだよ」
「私達ってきっと、前世でも恋に落ちてたと思うんだけれども」
「そりゃそうだろ」
「………どうして言い切るの?」

「俺とは生まれ変わってもまた、こうして恋をするから」

極々真面目に、それでいて何処か不真面目に応える彼の言葉の通り、私は明日から若くんに気安く話し掛ける十字架の男も、命令する泣き黒子も、調理実習の度に洋菓子を渡そうと蟲の如く群がり蠢く女共も、果ては授業中に彼を指名する教師共もみんなみんな一様に、決して若くんに露顕しないように、消して行こうと思った。
それは淡くゆるく降り積もった桜の上の雪のように、そして、彼、若くんのように上手く、上手く。